近ごろは猫も杓子もスニーカーなのよね!
そういうあたしもスニーカー持ってるし、履くわよ。
でもほんと、みんながみんなってかんじなのよ。
表参道やら代官山・中目黒やらに行ってみてごらんなさいよ。
スニーカー女子に遭遇しない日はないから!


だからって、「カジュアル化した」って
一概に言えるわけでもなさそうなのよね。
カジュアルな格好を好むひとはもちろん昔っから一定層いるんだろうけど、
きれいめスタイル?とでもいうのかしら、
一昔前ならヒールを合わせるところにスニーカーなのよ。
つまり、「はずし」としてスニーカーを履いてるのよね。
不穏な世の中だし、
無理をせず、
着心地のよい楽な格好がいいわ、
とかそういう雰囲気も
あるかもしれないんだけど
(またこのタイトル
「おしゃれは我慢」に反する傾向ね…!)、
あたしが気になるのは
この「はずし」なのよねえ。
「はずそう」とする感覚。
あたしが「はずし」を強く意識し始めたのは、
2000年代はじめごろだったわね…
コム デ ギャルソンっていうブランドのことを
ものすごく好きだったんだけど、
だからって全身ギャルソンなのはなんか「イタい」んじゃないか、
って思うようになっちゃったのよね、そのころから。
どっか「はずし」た方がいいんじゃないかしら、って。
「イタい」という視線って、傍観しないと生まれないと思うわけ。
ギャルソンに夢中で生きてきたけど、
そんなあたし、まわりにどう映っているのかしら…
と自分を傍観し始めたのよね。
だから、
あたし必死じゃないの、あたしが主導権を握っていて、引き算してるわけ、
的に「はずそう」とし出したのね。
それこそ足元スニーカーにしたり、他のブランドを合わせてみたり。
それはよく言われていることかもしれないけど、
2000年代はインターネットが普及、スマホやらも出てきて
それまで聞こえなかった意見や情報が聞こえるようになってきた、
というのもあるのかしらとやっぱり思うのよ。
知らぬが仏、だったのが、
そういう言われ方もされてるのか、と気づいたり、
言われてなくても、言われるかも、とむやみにおびえたり。
この感覚って、ファッションに限らず、
表現だとか、自分の意見を言うときなんかにも
何かしらあるんじゃないかしらと思うんだけどどうかしら。
「傍観者の視線」を意識して、その上手をいこうとするっていうかね。
「そんな意見があることは百も承知でそのうえでのこれです」
が、わかるように、というかね。
近ごろの足元スニーカーは、
そういう気分の現れのひとつなんじゃないのかしら、と思うわけ!
「流行ってる格好がきれいめ+スニーカーだから」スニーカー履いてます!、
とかだったら話はちがっちゃうんだけど!
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