僕は毎朝、お母さんのお布団の中で目を覚ます。
「今日の、朝ごはんはなんだろう?」
早起きのお母さんがでたあと、布団の中でひとり、わくわくしながら考える。
と、お母さんの「アル君、起きなさい」という声がかすかに聞こえてきた。
眠い体に大きく伸びをしながら、僕は心の中でこう呟く。
「もう少し、お布団の中にいたいな。そろそろ、お母さんにお布団から連れ出されるだろうけど」
トントントン、とリズムを刻む階段。
「お母さんだ」
と、僕が思うと同時に、
「アル君、起きる時間よ」
お母さんは、お布団にもぐり込んでいる僕を探し軽々と抱える。
まだまだ、お布団にいたいけれど、僕はこの瞬間が大好きなんだ。
お母さんの腕の中に抱かれていると、ほのほのする。
*
僕の家族は、お父さんとお母さん、そして、マキちゃん。
お父さんとは毎朝散歩に行っていたけど、いま、遠くへお仕事に行っている。
でも、お母さんが、いつも僕のそばにいてくれるから、僕は少しだけしか寂しくないんだ。
マキちゃんは、毎朝、僕よりも遅くに起きてくる。
今朝も、お母さんにマキちゃんは怒られて起きてきた。
あわただしく、「アル君、いってきます」と僕の頭を撫でるマキちゃんは、今日もどこかへでかけていった。
僕は、マキちゃんを見送る。
そして、僕の一日が始まる。
お母さんは、部屋から部屋へ渡って、ゴーゴーと音をたてながら、掃除機をかける。
僕は、この音が大嫌いなんだ。
こういう時、僕は窓をトントンとノックして、僕の庭へ逃げる。
*
昨夜の雨が雫になって葉っぱの上へあとを残す。
太陽が葉っぱの上で、キラキラ輝いている。
アルは、緑に囲まれた庭をゆうゆうと歩く。
清々しい空気を吸い込み、暖かい太陽の光を感じつつ、縁側に干してある座布団に横たわると、
自然とまぶたがとじていく。
「今日は、天気が良くて気持ちがいいね。僕もご一緒していい?」
と、アルの耳元に小さいけれど、優しい声が聞こえた。
声の主へ目を向けると、黒々とした綺麗な大きな羽を優雅に伸ばすカラスが横にいた。
アルはそのカラスの見たことのない美しい羽にうっとりして、
「こんにちは。どうぞ、ゆっくりしていって」
とカラスに向けていった。
カラスは、
「ありがとう。僕の名前はアーサー。君の名前は?」
と聞いてきた。
「僕は、犬のアルだよ」
優しく注ぐ太陽の光を浴びながら、縁側で二人は話をはじめた。
*
アーサーの話はアルの知らない世界の話ばかりだった。
たとえば、山の頂上でみた夕日。たとえば、海でカモメとみた朝日。
たとえば、高層ビルからみた地上の風景。
たとえば、たとえば……。
アルは、すっかりアーサーの話に夢中になっていた。
そして、アーサーがみた世界を自分も見てみたいな、とアルは思った。
「ほんとに、今日は気持ちがいい日だね。こんな日は、海が見たいな。これから、一緒に行こうか」
と、アーサーは微笑みながら言った。
アルは突然のアーサーの言葉に嬉しくて、ひとつ返事で「うん」と頷いた。
それから、アーサーは、
「アルと海へ行くなら、僕の友達を連れてこなければ。アル、ちょっと待っていてね」
といって、縁側から空へと飛び立っていった。
アルは徐々に小さくなっていくアーサーを眺めながら、海って一体なんだろう?
と思いながら、期待で一杯になっていた。
*
空に浮かぶ雲がいろんな模様に変わっていく。
「いつになったら、アーサーは来るんだろう?」
時間がたつに連れ、アルの期待一杯の胸はすこしだけ不安になっていた。
もしかしたら、アーサーは僕を海へ連れて行くつもりなんかなかったのかもしれない。
と、不安に負けそうになったアルが地面へ目を向けたとき、遠くから「カァーカァー」という声が聞こえてきた。
どんどん近づく声に、アルの心は空へ向かう。
「アル、少し待たせたね。ごめんよ。山まで友達を呼びにいっていたんだよ」
というアーサーに、アルの不安はふーと消えて、それ以上に嬉しさが心を占めた。
「アーサーありがとう。待っていたよ。僕、海へ行きたいんだ」
アルは大きな声で、アーサーへ感謝を伝えた。
「うん。僕もだよ」
アーサーとアーサーの友達たちは、静かにアルの縁側へ降りてきた。
そして、アーサーたちが山から用意してきた木のツタを、口ばしで上手にアルの体に巻きつけ、
「これで、アルも空を飛べるよ」と言った。
アーサーたちは口ばしでツタをくわえ、大きな羽を上下に揺らすと、アルの体がみるみる空へと向かっていった。
「僕、今、飛んでいる」
驚くその声は、アーサーたちの羽の音にかき消された。
アルはどんどん遠くなる自分の庭を眺め、まだ見ぬ世界が開けていくのを感じた。
*
「アーサー、僕、こんなに僕の町が小さかったなんてこと知らなかったよ」
とアルは興奮して、アーサーに伝えた。
アーサーは、ふふっ、と笑いながら、
「アル、これから、もっと素敵な景色が広がるよ」
と言った。
凛々しく、空を駆け抜けるアーサーを見ていると、アルは不思議と空の広さも高さも、
これから行く場所への不安もなくなった。アーサーといれば、大丈夫だと、アルの心が言っていた。
*
空の上は静かで、地上の音は何も聞こえない。
高層ビル群の横を通り抜け、すいすい進むと、空を阻むものはなくなっていた。
自由自在に飛び回れる空間をずんずん進むと、目の前に赤や黄色で包まれた山が見えた。
アルは初めて見た山に驚き、「山って、なんて高いんだろう」と、目を真ん丸くした。
そんなアルをみたアーサーは、アルに「すこし、寄り道してみる?」といい、
アーサーの仲間たちに指示をだして、山で小休憩をすることにした。
山に降りてみると、地面から空に向けて大きな木が立ち並んでいた。
「大きいな木たちだ」とのぞき込むように、地上からアルは上をむいた。
木の葉や枝の合間から少し覗ける空が光を注ぐ。
土と枯葉で覆われた地面はいつもと違う感触をアルへ与える。
なんだか、アルは走り回りたい気分になった。
そのとき、「そろそろ、いくよ、アル。海へ行く前に、日が暮れてしまうよ」と、アーサーが言った。
山にお別れを告げると、アルはまたアーサーたちに支えられ、空へ飛び出した。
*
空気が徐々に塩っぽい香りになり、湿っぽさが体に纏わりつく感じがした。
慣れない空気にアルが目をしばしばさせていると、
「アル、目の前を見てみなよ、ほら」
と、アーサーが言った。
蒼い広がりをみせた海面はキラキラと輝く。空の双子の片割れは、どこまでいっても果てがないようにアルには思えた。
「これが、海?」
とアルがアーサーに問うと、
「そうだよ。これが海だよ」
と、アーサーは穏やかに応え、
「砂浜へ降りてみよう」と言った。
アルとアーサーたちは心地よい潮風に吹かれながら、海原を駆け抜けた。
「あー、僕は本当に海へ来たんだ。僕が見たかった海。
連れてきてもらうまで、僕はちっとも海を想像することができなかった。
だのに、なぜ、今、僕は懐かしさを感じるんだろう」
人気のない砂浜に、アルの涙が足跡を残し、押し寄せた波が消した。
背後から、アーサーが優しい声でいう。
「アル、君は海を知っていたんだよ。僕たちは何度も海へ来ている。ただ、忘れてしまう」
「なんで、僕は忘れてしまうんだい」
とアルはアーサーへ聞いた。
「それはね、誰でも現実に起こりえないことは、夢にしてしまうからなんだ。
実際に起きたことが、たとえ、どんな風に、どんな時間に、どんな空間で起きたとしても、
自分さえ忘れなければ、それは現実なんだよ」
そういうアーサーの力強い声が、波に溶けていく。
*
「アル君、そろそろ、おうちへ入りなさい」
お母さんの声がおうちから聞こえてくる。そして、縁側にいた僕をそっと抱き上げた。
あれ、ここは、どこだろう。アーサーは?
僕はアーサーたちと空を飛んで、遠い遠い、海へ行っていたはずだのに、
とアルは思った。
いつもと何にも変わらないけれど、何か違う。
さっきまでの出来事は、僕の夢だったのか? いや、違う。
僕はアーサーたちと海へ行ってきたんだ。
だって、この手には今でも感触がしっかり残っている。
*
「ただいま~、夕飯は何?」
どうやら、マキちゃんが帰ってきたみたいだ。僕は、玄関まで迎えに行く。
マキちゃんは玄関で僕を抱き上げ、居間へ向かう。
お母さんは、「お帰り。今日は、五目御飯よ」といったあと、ハッと思い出したように、
「縁側に干していたお座布団取り込んでくれる? 忘れていたの」とマキちゃんへ言った。
「はーい」といったマキちゃんは僕をそっと床へ下ろすと、庭の縁側へ出て行った。
食卓で夕食を囲んでいるとき、マキちゃんがふと言った。
「お母さん。今日、雨とか降った? それに、風、強かった?」
「えっ、今日は清々しい天気よ。なんで?」
という、お母さんの言葉にマキちゃんは、
「いや~、縁側に干してあったお座布団に砂がついていて、かすかに海の香りがしたんだよね」
といった。
僕が海へ行ったんだ。と、僕は胸を張って食卓を見上げた。
*
「アル君、寝るわよ。早く来なさい」
僕はお母さんに駆け寄り、暖かいお布団の中へ潜り込んでいく。
「なんだか、潮風のにおいがするわね」
お母さんが僕の横で呟く。
僕はお母さんに心の中でいう。
「そうだよ。アーサーたちと、海へ行ってきたんだよ。今日はいろいろ見てきたんだ。冒険したからね。いつか、この話をお母さんへするよ。いつか、いつかね…」
そして、僕は今日もお母さんの腕を枕に眠る。
「おやすみ、アル君」
「おやすみなさい、お母さん」
了